謝罪
自分の周辺における謝罪と一般における謝罪の違いがあることに気づいた. まず私の感覚では”謝罪”というものは必ず理由があると思っていた.しかし一般においてはその限りではないのである.
謝罪のフロー
まずA, Bがいるものとする.Bが料理をし,料理をA,Bで食べる. AがBに対し「少し塩辛いね」という.これに対し,Bは不機嫌な様子を見せる. これを見てAはBに「ごめん」と言った.
さて,Aの「ごめん」はなにに対して言ったのだろうか? 私は,この状況においてで言えば,「発言がBの気分を害した」ことに対しての謝罪をしている.つまり発言内容の正誤についてはなにも思っていないのである.
多くの場合は「塩辛いと言ったこと」に対して謝罪した,という感覚を持っているのである.こうすると前者と後者ではコミュニケーション上の齟齬が生じやすい.
私の思考フロー
まずロジックと気持ちは独立的に存在していると考える. この例では「料理が塩辛い」,「Aが塩辛いと感じた」,「Aの「塩辛い」という発言がBを傷つけた」という事象がある. 本を辿るのであれば「料理が塩辛い」が問題なのではあるが,流石にそれを責めるのは酷というものだ.
ロジックとしては事実として料理が塩辛い,そしてAがそう感じたという事実がある. 感情としてはAの発言がBを傷つけたという事実がある.
このときに謝るべきは本来は感情の「Aの発言がBを傷つけた」である. なぜならば「塩辛い」とAが感じること自体は内心の自由であり,それ自体は不可侵である.思うなということは不可能だ.
が,私は交際中にこのような謝罪で何度か「お前は何に対して謝ってるんだ?」と詰められ,上記のような回答をしてさらに怒られた.
一般的な謝罪
一般的な謝罪ではロジックと感情の分離を前提にしない. 詰まるところこのAの「ごめん」は「料理が塩辛いと言ったこと」なのである. 非常に奇妙に感じるかもしれないが,このような思考を持つ方は多くいるのだ.
なぜ「料理が塩辛いと言ったこと」かと感じるかもしれないが,これは彼らの論理としては筋道が立っている. ロジックと感情が密接に結合していると認識している方において,気分は害することを悪とした時にその直接要因までしか認識ができないのだ. つまり「気分を害することを言ったことが悪い」ということなのである. 非常に理解し難いことではあるが,一般的なコミュニケーションでは不都合な事実は突きつけてはいけないのだ.そして突きつけた場合は突きつけた側が全てにおいて悪いのだ.
釈明
自身はある程度の不都合な事実は受け入れるべきという感覚がある. 例えば「お前はモテない」と友人に言われたとして,「モテない -> 真」として受け入れた上で「それはそうと面と向かって言われるとムカつく」という回答をする. もしも友人が謝罪するとしたら事実の指摘自体ではなく,「ムカつかせた」の一点である.
こういう点で差異を感じることがあった